旧名称は、子之権現
所在地 神奈川県厚木市戸室4丁目8-7
祭神 大己貴命 ( おおなむちのみこと )
新編相模国風土記稿や縁起などによると…
子之神社は戸室村の鎮守で、石一顆を神体とする。祭神は「大己貴命」である。
別当は神社南側にあった安楽院であったが、明治初期に廃寺となった。
本殿の棟札によると当社本殿は元文4年(1739年)に領主の旗本興津忠道が
再建を命じ、大山の大工棟梁・明王太郎(みょうおうたろう)が造立した。
この完成に際して納められた略縁起には、古くからあった小社を慶長12年(1607年)に
忠道の曽祖父である地頭興津内記忠能が田地を寄附し、神社を造営させたと
記されている。その後は子孫によって度々修造が加えられたとあります。
△末社 山王社・牛頭天王社・稲荷社。
△神楽殿(消滅)
△鐘楼(文化8年鋳造 消滅)
△別当安楽院…明治初期廃寺
(現在の高嶋家あたり、本尊の不動明王は現在、浄雲寺の位牌堂に安置されている。)
その他、御獄社・第六天社など・・・
境内本殿右奥に建てられている碑には・・・
古来、子ノ神社は、現在地の下段にあったが大正十二年の
関東大震災により潰滅的大被害を受けた。復旧には西方高所の
隣接農地六五一m2を、左記四名の寄進、全七十三戸の寄付金、
労力奉仕等により、社殿と境内の模様替えが完成した。
茲に、農地寄進の経緯を誌し、碑を建てる。
昭和三年(一九二八)十一月一日
戸室***番地 小林吉太郎
戸室***番地 霧島弥吉
戸室***番地 安藤市太郎
戸室***番地 安藤卯吉
・・・とあります。」
例祭は、旧暦の11月15日に行われていたが、戦後は4月20日。さらに、昭和50年頃から4月の
第3土曜日に行うようになった。
豊作・家内安全・無病息災を祈願し、今年も無事過ごせたので氏子が神様に
神楽や余興をあげてお礼をするのが本来の目的。
祭礼前日には神前の飾り付け、舞台の設営、参道への提灯の飾り付け、鳥居への
国旗掲揚などを行う。
当日は10時から神事が行われ、本殿と境内の御嶽社、そして第六天社と水神社の祈願を行う。
その後は子供神輿の御霊入れを行い太鼓連と共に地域を巡行する。
昔の余興は神楽や歌舞伎芝居(戦後数年)であったが、昭和30年頃から現在のような
余興になった。
露天は昔も今も、神社周辺の道路に出て祭りを盛り上げている。
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